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鞄屋
手記「鞄屋」
20世紀後半:日本のバッグ・鞄業界
by
HONDA-BAGS PROJECT :本田洋一

手記「鞄屋」その2


80年代、鞄市場の成長期

 メンズショルダーバッグの登場があったといえ、鞄はまだ実用品に近く、本当の意味でファッションアイテムの領域に入るには、もう少し年月が必要だった。 レディースのバッグは70年代にはその領域に入っていたが、鞄は高級品だけが、お金持ちやビジネスエリートのステイタスシンボルとして扱われることぐらいが、 唯一ファッション的要素であったにすぎなかった。 洋服とコーディネイトしたり、“T・P・O(時・場所・状況)”に合わせて鞄を持ち替えるというレベルになってこそ、 初めてファッションアイテムになったと言えると私は考えていた。

 そして、80年代に入ると、世の中は急に“DCブランド・ブーム(日本人デザイナーおよび日本のキャラクターメーカーブランドの流行)”となり、 男も次第におしゃれになり始めた。 ヨージ・ヤマモト、イッセイ・ミヤケ、ケンゾーといった日本人デザイナーが海外でも脚光をあびるようになり、 ビギ、ファイブ・フォックスをはじめキャラクターメーカーが次々登場し、ファッション好きの若者を虜にしていった。 丸井にもメンズ館が生まれ男のファッション化が急激に進んでいった。
 その頃を境に、鞄もファシッヨンアイテムへと次第に変化し始めた。 服装に合わせたり、ライフスタイルやビジネスシーンに合わせて、鞄を使い分ける時代がやっと訪れようとしていた。 そして、バッグ業界の中にも新しいキャラクターメーカーが登場し、新鮮なファッションテイストを切り口にした提案で業界をリードし始めた。
 インポートアンティーク家具の販売からスタートし、ティールームやフランス人デザイナーと提携したアパレルの展開をはじめ、 最近ではアメリカのコーヒーショップと提携してチェーン展開も行なっている多角的企業のSZ社のバッグ事業部も、 この頃から頭角を現してきたキャラクターメーカーのひとつだった。他にも傘業界から転身してきたLI社。 バッグ小売店を辞め独立し異素材(皮革素材以外という意味、ショッピングバッグと業界用語では呼ばれていたこともある)のヤング向けバッグで成功しているSC社、 青山でブティックのようなショールームで話題になったMC社(現在は経営者が替わってしまったが)等もそのようなキャラクターメーカーだった。 しかし、いつの間にか消えていったキャラクターメーカーも沢山あった。

鞄のファッション化対応

 「いよいよ鞄業界もファッションの時代になる」。 その流れを感じた私は“鞄のファッション化対応”を真剣に考えた。その頃は仕入れもすべて任されるようになり、業界のことも一通り分かるようになっていた。 もちろん鞄の販売員としてもプロであるという自覚を持つまでになっていた。
 そこで、メンズショルダーバッグに続き“男のおしゃれバッグ”として、ビジネス用途ではない小型のセカンドバッグを大々的に打ち出してみることにした。
 最初は、これらも直輸入品が中心で国産品は“集金用バッグ”しかなかった。またまた、IT社が小型セカンドバッグの開発に積極的だったので、相乗りして売り出してみた。
 すると、スーツのポケットが嵩張りスタイルが崩れるのを気にするヤング層に指示され、次第に売れるようになっていった。 その頃登場したウォークマンの収納バッグとしてもピッタリというので、さらに人気が出てきた。また、夏の季節には上着を脱ぐため、 ポケットの小物をまとめて入れるにも便利という実用面からも愛用者が増えていった。 タイプとしてはオーソドックスな“かぶせタイプ”や天ファスナータイプ“が中心だが、やがて洗面用具を入れる”化粧ポーチタイプ“までが売れるようになっていった。 そして、これらセカンドバッグ類のことを、いつしか”メンズポーチ“と鞄業界では呼ぶようになった。 (私が社内で”メンズポーチ“と呼んでいたのがいつの間にか業界用語にまでなってしまったのには驚いてしまうが・・これは事実です。) 関西地区では”ダブルファスナータイプ“のメンズポーチが売れ筋商品として一時はブームにもなった。 関東地区では”三角マチのファスーナータイプ“が売れ筋人気商品となった。
 メンズポーチのヒットは本当の意味で「鞄のファッション対応」ではなかったかも知れないが、男がビジネスシーン以外でもデイリーにバッグを持つ切っ掛けをつくり、 市場拡大の要因になったと言えよう。
 その後、ファッションのトレンドカラーがネイビーブルーだった年があり、 その時には紺色の鞄を集められるだけ集め展開したこともあった。黒と茶色がほとんどの中にあって、 鞄のカラー提案は、ブームや売れ筋にはならなかったものの、かなりのインパクトはあったと思う。

 当然、新規のキャラクターメーカーの商品も他にさきがけ積極的に取り入れ、従来の実用的な鞄から脱皮したファッションテイストの強い商品群を提案していった。 このような努力が少しずつ認められるようになり(勿論、私だけの努力ではないが)こうして鞄もようやくファッションアイテムとして、世の中に認知されるようになっていった。
 また、やっと鞄の世界にもライセンスブランドが登場するようにもなった。 70年代にもライセンスブランドがなかったわけではないが、ウサギの耳マークのブランド(最近また復活してきている)とか傘マークのスポーツブランドとのようなもので、 ファッションのようでファッションでないちょっと感覚の違ったものであった。
 そして、80年代に入りフランスのデザイナーブランドや日本のDCブランドを中心としたファッションテイストの明確なものがやっと増えてきたのだった。

鞄のギフト対応

 ファッションの話とは少し変るが、鞄の仕事を始めて数年たった頃、あることに気づいた。 それは紳士物の鞄売場にもかかわらず、女性のお客様が徐々に増えてきたということだった。
 女性のお客様には2通りのタイプがある。ひとつは自分自身で使う鞄を、婦人物では満足できず紳士物で探しているタイプ。 もうひとつはプレゼント用の鞄を探しているタイプ。これら女性のお客様にどのように対応してゆけばいいのか真剣に考えてみた。
 前者に関しては、これまで様々なメーカーが「働く女性のための鞄」というテーマで何度か提案してきたことがあった。 女性向きのデザインにしたり、カラフルにしてみたり、軽量化をはかってみたりと結構工夫して、百貨店の鞄売場や鞄専門店に投入してはみたが。 どれも今ひとつ成功していなかった。あのSONYが「女性のためのビジネスバッグ」を中心にしてバッグ業界に参入しようとしてきたこともあったが、 とうとう目が出ずわずか数年で撤退していったこともあった(それだけが撤退の理由ではないとは思うが)。 やはり女性のためのビジネスバッグ開発はファッションの流れが早いため非常に難しいようである。 また安定的に女性のお客様が来店されるわけではないので、売上効率も悪く長続きしないのも現状だった。
 しかし、後者のプレゼント用の鞄を探しているお客様に関しては、次のように視点を変えることによって大きく売上が伸びることが次第に分かってきた。 これはとても重要な発見だった。そして、様々な商材が重なりあって存在する“ギフトマーケット”という巨大な市場について学ぶことができた。
 さてその基本は、紳士物の鞄ではあるが“女性のお客様の立場に立ってM・D(商品)構築”をするということだった。 言葉でいうことは簡単であるが、男性のお客様のためのM・D構築とはかなり異なる点がある (*最近読んだフットウエアプレス:2001年7月号に前田喜昭氏の記事で「男と女で違う『買い物脳』」という記事も参考になるので機会のある方にはご一読をおすすめ)。 男性のお客様が自分自身で使用するものであれば、用途、サイズ、機能性、耐久性、デザイン、素材、カラーそして予算の順が選択のポイントとなるが、 これがプレゼント用となると、予算とデザイン(商品イメージ)が選択の優先ポイントとなり、サイズや機能性は二の次になる。 つまり鞄をプレゼントされて使用する相手を満足させる以前に、贈る側のお客様を満足させなくてはならない(見栄といっても良いかも知れない)という要素が必要になって くる。すなわち、気の効いたプレゼントをしたという証が大切なのである。
 その結果、女性に人気のあるブランドのついた鞄をお奨めすればかなり効果的であるということが判明してきた。 一般的に男性に鞄をプレゼントするということはかなり親しい関係であるので予算額も高い。 そして、それなりに商品イメージの高いものを選択したいと考えている。そこで最も判りやすい基準となるのが“ブランド”ということになる。 しかもそのブランドが自分自身(その女性のお客様)のお気に入りのものであることが一番のポイントとなりやすい。 サイズや機能性をまったく無視するわけではないが、送る立場としての見栄の部分を擽ってあげなければ決定の決断が下せないようなのである。 例え鞄が使い易く、丈夫で価格も手頃であったとしても、また一般的に売筋商品であったとしても、認知度の低いブランドであったりノーブランドであったならなかなか買っていただけない(このことに気づく前は、そのような接客をして何度も虚しい経験もしたが)。
 もちろん“鞄のギフト対応”には他にもいくつかの重要なポイントがある。店舗の格やイメージ、商品ディスプレーやパッケージ(昔は百貨店の包装紙にその価値があったが)、接客マナーや接客トーク等々。しかし、何よりも重要なポイントは女性に支持されるブランドなのである。
 この発想は大正解だった。が、しかし(電波少年もとい雷波少年調で)。 その頃の鞄業界はライセンスブランドビジネスの参入に遅れをとっており、ライセンスブランド自体も少なく、まして女性に人気のあるブランドはほとんどなかったのだ。そして、人気ブランドのほとんどはレディースのバッグメーカー問屋、皮革小物やベルトメーカー問屋等がライセンスを収得して押さえていたのだった(やがてそれらのメーカー問屋がそのブランドを活用して鞄業界に参入してくることとなる)。
 そこで、人気ブランドのライセンスを持つレディースのバッグメーカー問屋をあたり、それらの商品群の中から男でも持てそうなバッグを強引にセレクトして売場で提案してみることにしたのだ。例えば、タータンチェックでお馴染みのNK社の英国ブランドとか、あるいは“r”マークで70年代に大ヒット商品を飛ばし、皮革小物メーカー問屋からバッグ業界に転身してきたAO社のフランスブランドとか。
 そして、その中心のアイテムはセカンドバッグすなわちメンズポーチだった。これが前期の“鞄のファッション対応”と相乗効果を発揮し爆発的に売れていった。用途的にも誰でも持てるバッグであり、サイズも嵩張らず、価格的にもビジネスバッグほど高価ではなく手頃であるといった要素が“ギフト対応”にもピッタリだった。12月のクリスマス、2月のバレンタインディー、6月の父の日といったギフト商戦期の売上が圧倒的に伸び始めたのは、この“ギフト対応”が大成功したからだった。私にとっても“仮説から検証”の貴重な成功体験となった。
 これを契機にNK社は本格的にそのブランドの紳士鞄の生産を始め、現在でも鞄業界の中ではギフト対応の要ブランドのひとつになっている。AO社も新ブランドを増やし鞄(メンズ)業界に本格的に進出してくることとなる。また、IT社もライセンスブランドを開始した際に、ギフト対応の重要性をアドバイスしたところ、そのことを素直に理解しメンズポーチの商品構成に重点を置くことによりライセンスビジネスを成功させている。
 方やギフト対応の重要性に気づかずライセンスブランドビジネスに参入したメーカーは、高額な契約金でせっかく良いブランドを収得できても鞄(メンズ)業界では結果が出せず、やがてそのブランドを手放すことになったケースも多い。
 また、鞄業界最大手のAC社は“カバンはAC”という看板のこだわりにとらわれて、その頃はライセンスブランドビジネスに消極的だった(主力製品のスーツケースがライセンスであるにもかかわらず)。あくまでも自社名を売るという姿勢を崩さず商品本位で頑張っていたが、他社がライセンスビジネスでどんどん売場(特に百貨店において)に進出してくることに見かねて、やっとライセンスビジネスに取り組むようになっていった。しかし、その時にはすでに遅く目ぼしいブランドはほとんど他社に押さえられてしまっていた。辛うじていくつかのブランドを収得し、それなりに企画力と販売力で成果も上げてはいるが、当時はライセンスビジネスに出遅れてしまったのは事実である。

 “鞄のファッション対応”と“鞄のギフト対応”のふたつが80年代の鞄業界においてマーケットの大きな成長のキーワードであった。鞄という商品にこのような付加価値を加えることによって新しいマーケットに発展することを最前線で体験できた。そして、私もSS社の業績と鞄業界の発展に一役果たせたのではないかと思っている。ただし、これらはすでに過去のものであり、21世紀を迎えた今、鞄のマーケットもさらに大きく変化しており“鞄のファッション対応”と“鞄のギフト対応”も今や古典的な手法でしかないと思っている(くれぐれも今さら参考にしないで欲しい)。
 
皮革製品の本場(?)イタリアの話

 30歳になった頃、私はSS社の商品開発担当になった。初めての仕事としてイタリアに鞄の買い付けに行くことになった。南周りアリタリア航空でホンコン、インド、中近東を経てローマからミラノに入った。
 ミラノでは年2回“MIPEL(ミペル)”というバッグを中心とした皮革製品の国際的な展示会が開かれている。とても大規模なもので世界中のバッグのバイヤーや関係者が集まってくる。イタリア国内のメーカーだけでなくヨーロッパ各地メーカーも出展しており、近年ではアジア地区のメーカーも増えてきている。 日本ではレディースバッグの老舗大手メーカーのPT社も出展して頑張っている。
 海外に出るのは新婚旅行でスイス、パリに行ってから6年ぶりだった。 また、イタリアへは大学時代にユーレルパス(ヨーロッパ列車乗り放題チケット)とヒッチハイクで北イタリアを旅してから8年ぶりだった。 その時はフランスのコートダジュールから入って、トリノ、ミラノ、ベローナ、ベネチアと周りオーストリアへ抜けたのだが、 イタリアではヒッチハイクが面白いくらい成功率が高かったのが印象的であった。まだ東洋人が珍しいかったのかも知れないが(今では考えられないが)、 ヒッチハイクをする度に飲み物や食事をご馳走になった。時には自宅に宿泊もさせてくれた。さらに観光名所まで案内してくれるほど親切な人たちもいた。 列車に乗っても気さくに話しかけてきて、サンドイッチやワインをすすめられながら、たいして言葉も通じないにもかかわらず本当に楽しく過ごせた思い出が沢山ある。 イタリア語はまったく解らなかったが、カタコトの英語とフランス語でなんとか通じていたようだ。今思うと“テレパシー”で意思の疎通をしていたのではないかと思えてしょうがない。
 ともかくヨーロッパではイタリアが一番楽しかった。ミラノの街の中心に“ドゥオモ”という歴史的な大聖堂がある。その建物の入り口の階段に座って「日本に帰り就職して社会に出たら、もう二度と来ることはないだろう」と思っていたが・・。その後、仕事で何度も来ることになろうとは夢には思わなかった。イタリアには今でも不思議な縁を感じる。

 さて、初めてのイタリア出張では戸惑うことばかりであった。1982年当時、日本のレディースバッグメーカーのPT社がミラノに現地法人の会社を設立し、積極的に商品開発をおこなっていた(現在、その会社はなくなったが、今も現地スタッフを残し、情報収集および“ミペル”への出展を果たし海外ビジネスの拠点のひとつとなっている)。その現地日本人スタッフの方々の手助けもあり、何とか初めての輸入の仕事は果たせたが、今思うと、それまで鞄の販売員にしかすぎなかった私としては良くやれたものだと感心する。

「MIPEL(ミペル)」欧州最大のバッグフェアー

 ミペルの展示会場は想像を越える広さで、何百というメーカーが展示ブースを構えている。それらを一通り見てまわるだけでも丸一日はかかってしまうほどである。余りにも広すぎて慣れないうちは迷ってしまい、自分がどこにいるのかすぐ分からなくなってしまうこともしばしばであった。 トイレを探すことも一苦労で、いったん用を済まし元のところに戻ろうとしても、またそれが一苦労であった。そのように広い会場を隈なく歩きまわり、 日本にはない目新しい鞄を中心に輸入したい商品を探してまわる。
 ブースの中に入ると「ボン・ジョルノ」と声をかけられる。とりあえずこちらも「ボン・ジョルノ」と挨拶して商品を見てまわる。 そして、気になる商品があったら手に取り品質を調べる。その時を待ってたとばかりにブースのスタッフが近づいてくる。次にかけてくる言葉はほとんど決まっている。 「プライス?」という英語である。当然こちらも「イエス、プリーズ」と答える。 そうするとプライスリストを取り出してきて、商品についている品番と照らし合わせながら(けっこう勿体ぶって)何やらわからないイタリア語で「○○○○○リラ」と言うが、 イタリア語はわからないという顔をすると、次に英語で「×××リラ」と言ってくる。 それもよく聞き取れなかったふりをすると、ようやくプライスリストを指差して見せてくれる(紙に書いてくれたり電卓で示すこともあるが)。 それを確認しながら自分の電卓を取り出しその価格をまず円に換算する。 それに輸入コストと利益分を加えた定数で計算し日本での小売価格を推定で出す。 そして、この価格帯で売れるかどうか判断する。ついでに他の商品も適当に何点かピックアップして価格を調べる。 それでそのメーカーのレベルを大まかに判断する。イケそうな商品であればメーカー名とブース番号をチェックし「またあとで」とか「また明日」と挨拶して、 「チャオ」という親愛のこもった言葉で見送られながらブースを離れる。         

 そのようなことの繰り返しで初日目は終るが、展示会場内の所々に設けられたバール(スタンドカフェ)で時々エスプレッソやコーラを飲んで一休みする。 昼食もバールのサンドウィッチ(生ハムのパンニーニがおいしかった)で済ます。 地下にセルフサービスのレストラン、3階に定食レストランもあり、ゆっくりしたい時はそこで昼食をとることもあった。 なお近年は、イタリア貿易振興会が日本人専用のラウンジを設けており、そこでは軽食や飲み物が無料でサービスされるようになっているので利用するようになった。 ついでながら会場内には銀行の両替ブースもいくつかあり、レートも適性であり土日でも両替可能なのでたびたび利用していた。

イタリアでのアフターファイブ

 一日展示会場にいると足も痛くなり時差ボケも手伝ってかなり疲れる。それに耐えながら夕方から夜はミラノの街の中心に出かける。 ミペル会場近くからトラムと呼ばれる路面電車をのる。やがてドゥオモ(大聖堂)の荘厳な姿が見えてくる。そのたびに、イタリアにまた来れたのだと感動した。
 それから商店街を見てまわる。有名ブランドショップがあちらこちらにあり話題の店は一応覗いてみる。当然ながらバッグと鞄の店はしっかりみてまわる。 ウインドゥはピカピカに研かれ工夫を凝らした商品ディスプレーはとても綺麗でいつ見ても感心する。どの店も入り口は狭いが中に入ると奥行きが深く地下にも広い売場がある。
 いろんな店を見ているとついプライベートな買い物もしてしまう。 また、頼まれ物やおみやげ品も後でまた来ようと思ってもなかなか時間が取れないので見つけたらその場ですぐ買った(慣れてくると買いたいものがだんだんなくなってきたが)。
 街を歩いていると必ず知った顔の人とすれ違い挨拶を交わす。 このミペルの展示会時期には日本のバッグ業界の人たちが商品を輸入するだけではなく商品の傾向や情報を集めるために結構沢山来ている。 中には日本では滅多に会うこともないのに、ミラノでは必ず会
う人もいたりする。

 さて、その後のお楽しみはイタリア料理である。 高級なレストランにはあまり縁はなかったが、どんなリストランテ(イタリア語ではこう呼ぶ。)やピッザリアであっても、まずいということは決してなかった。
 ほとんどの場合、誰かの紹介や推薦の店の中から、日本語のメニューの置いてある店を選んで利用していた。 たまに、取引先のイタリア人に同行したが、彼らのお奨め料理も楽しみのひとつだった。 ただ会話が今ひとつ弾まず、お互いに気まずい思いをしたこともあったが、それでも美味しい料理があれば楽しいものだった。
 どうしても和食が食べたくなった時は、取引先のイタリア人に紹介された中華レストランに行くようにしていた。 あくまでもミラノ風中華料理で味付けのほうはそれなりだったが、その味も他では味わえない個性ということで、 毎回一度は立ち寄るようになり、店のオ―ナーともすっかり顔馴染みになってしまった。 どんなイタリア料理が美味しかったかは文章で書いても伝わらないので止めておくが、 イタリア出張するたびに必ず3,4、キロは太って帰ってくるぐらい美味しかったとだけ言って置く。

イタリア人との商談

 話はミペルでの仕事に戻す。前もってチェックしておいたメーカーのブースに再び訪れ商談をするわけだが、最初は悪戦苦闘だった。 何せお互いに言葉が通じない。英語が分かるイタリア人や通訳のいるメーカーもあるが、何故か私が気に入ったメーカーはイタリア語だけしか話せないところばかりだった。 そのほとんどが少人数(家族だけでやっているとか)で経営してるような小さなメーカーだった。 名前が日本でも知られてるようなメーカーは、日本での総代理店がすでに決まっており、ブースに立ち寄っても、 こちらが日本人だと分かると入室を断られた。 その後慣れてきて、その日本の代理店の顧客であると告げ(半分ウソ)強引に入れてもらい、商品だけはキッチリ見せてもらった。

 さて、商談は受注発注形式でサンプルと同じものをそのまま選ぶこともあるが、たいていは鞄のモデル(型)を選び、次にマテリアル(皮革素材)を選ぶ。 さらにカラー、サイズそして発注本数と決めてゆく。まるでスーツのイージーオーダーのようなものである。 日本のバッグ業界では決まったものしか発注できないがその点がまったく違っていた。日本は問屋型メーカースタイルであることを初めて知ることとなった。
 金具やパーツの型やメッキの色までも選定でき、そのうえ希望するネームやロゴマークまで刻印してくれるので、 やり方次第ではメイド・イン・イタリーの自社オリジナルが簡単にできてしまう。ロット数にも特に限定はなく、一型1本でも発注が可能なことにも非常に驚いた。
 その後、自社ショップのロゴマークを持参し発注した商品に刻印してもらうようにしていった(そのメーカー名と自社ショップのダブルネームのメイド・イン・イタリー製で)。
 また、何度か日本の売れ筋鞄をサンプルとして持ち込み、オリジナルとして製造してもらったことがあった。しかし、イタリアメーカーの独自の持ち味が消えてしまうので、 やがて止めることにした。
 もともと欧米には問屋制度があまりない。そのため小売店は直接メーカーに商品を製造依頼する形となる。 一流のアパレルブランドショップもこのようにしてオリジナルのバッグを製造している事がわかった。 あるメーカーのブースにスイスの有名なブランド(靴屋からスタートしてアパレルやバッグも扱っている)のロゴマークが刻印されたバッグのサンプルが置いてあった。 尋ねたところ、そのメーカーが数型を請負って製造しているとのことあった。 そして、それと同じものをスバリ(ロゴマークはなして)発注することも可能だったがやはりそのブランドがついていて初めて価値があるものと思い発注はしなかった。
 そういうわけで発注内容はカタコトの英語でなんとかなるが、最後に納期、運送費の負担、梱包方法、支払方法、値引き交渉等々ですったもんだすることになる。 さらに修理用パーツの依頼等をオーダーシートに記入するが、イタリア語(達筆の)なのでこちらの意向が正確に伝わったのかどうかよく分からないこともしばしばだった。
 色々な失敗もあった。デリバリーが予定より遅れるのはほとんど当たり前(商品が出来上がり日本に届くまで3ヶ月は普通で、遅いと半年くらいかかる)。 鞄のサイズや色が発注と違っていたりとか、メイド・イン・イタリーの生産地表示が抜けていたりとか、 売り物にならない不良品があったり(売れた後に予想外の不良生じてクレームになったことも)とか、 皮革の色落ちがはげしかったり(イタリアでは皮革の色落ちは当たり前という常識が通用しているが)とか、 その対処に慣れるまで本当に苦労した。
 そのような失敗の授業料も払ったが、数年後にはなんとか順調な輸入ができるようになっていった。 SS社において、このような経験をさせてもらったことに本当に感謝している。イタリアで若い頃ヒッチハイクをしてイタリア人にお世話になった借りを、これで返せた気がする。
 イタリアも皮革製品の本場という事でバッグも人気が高いが、近年「プラダ」のナイロン製バッグの大ヒットでバッグは皮革製品という概念が崩れかけている。 日本も同様で、軽くて丈夫でファッション性のある異素材のバッグが主流になっている。 さらに皮革物のバッグは韓国や中国ほかでかなり安く生産されるようになりイタリアのバッグメーカーは今や一大転機を迎えている。 もちろん日本も同様であるが。

あるイタリア人のこと
 
 鞄を通して色々なイタリア人と知り合いになった。 その中でも印象深い友人が何人かいる。初めてのイタリア出張の時にAP社のE・R氏と出会う。当時、彼はイタリアの有名バッグメーカーから独立したばかりだった。
 ミペルの展示ブースもまだ独力では持てず、友人のブースの片隅を借りて細々と商品を展示していた。 皮革くさい伝統的な鞄を製造するメーカーが多いなかで、彼の商品はかんりモダンな感覚を持ったものだった。 その姿勢が気に入り私は取引することに決めた。
 ブースに持ち込んでいたサンプルだけでは不十分という事で、その日の夜、ミラノの郊外のセレーニョという町にある彼の工場まで車で案内された。 初めてイタリアの鞄工場を見せてもらった。日本は家内工業的な職場がほとんどだがイタリアはみな工場化形式である。 その中で技術を持った職人は2、3人で、後はパートの女性が作業をして製造しているという。真ん中に長いテーブルのような作業台があり、 その上につくりかけの鞄が並んでいた。端の方に年期の入ったミシンや皮革を裁断するための機会が置いてあった。 棚には色々な皮革は金具が雑然と置いてあり、いかにも鞄工場という内部だが外から見るとちょっと大きな普通の民家にしか見えなかった。
 下手な英語とフランス語とをチャンポンにしながら会話し夜遅くまでかかってなんとか商談を終えた。 その時は日本では珍しい象の型押し皮革の鞄(色はもちろんグレー)を発注した記憶がある。
 その後、リゾット料理専門のレストランに招待された。ミラノ風味付けにはじまって様々に味付けしたリゾットを少量ずつ何種類もご馳走になった。 そのリゾットの味は忘れてしまったが、その思い出だけは今も忘れられない。
 私にとっては初めてのイタリアでの商談、E・R氏にとっても初めての日本人との商談であった。
 それ以後、彼の会社との定期的取引は続いたが毎回のように新製品を提案する姿勢には、いつも感動した(いつも同じ商品しかない鞄メーカーも多い)。 何度か会うたびに、いつか日本にも来るように勧めたが、日本はあまりにも遠すぎると辞退していた。 しかし、いつしか日本にも仕事で年2、3回来るようになり(日本に多くの固定客もできたようで)、驚いたことに奥さんも日本人ももらってしまっていた。
 人なつこっく、それでいて細かい所まで気配りもでき、ファッションセンスもビジネスセンスも優れた、イタリア人らしからぬぐらいよく働くイタリア人である。
 イタリアという国は、南と北では風土も人間の気質も違っているといわれるが、南北に関係なく「アモーレ(愛すること)、マンジャーレ(食べること)、カンターレ(歌うこと)」がイタリア人のキーワードであるとつくづく感じさせられる。まさに人生を明るく楽しく生きている人種の代表であると思ってしまう。

バッグ・デザイナーの話

 SS社の商品開発担当として、国内では新規メーカーの開拓とオリジナル商品の開発を行なっていた。そのため鞄業界の川下である販売の仕事に加え川上の仕事も少しずつわかるようになってきた。
 80年代に入ると次々と新しいバッグメーカー(メーカーと一般に呼んではいるが、ほとんどは外部発注で自社製品を企画製造しているメーカー型問屋であることをお断りしておく)が登場してきた。また、他業種から参入してきたメーカーも増えてきた。ベルト業界、皮革小物業界、靴業界、文具業界、さらにはライター業界からもバッグ業界に参入してきたりと実に賑やかな時代だった。
 ライセンスブランドビジネスを利用した参入が多かったが、ファッションセンスのよいバッグデザイナーによるキャラクター性の強い商品での参入も目立ってきた。
 この頃から、バッグのデザイナーが本格的に登場してきたといえる。それまでは製造メーカーによるデザイン企画が中心で、バッグ問屋は企画生産担当者がプランニング的にデザインを行なっているのが普通だった。
 バッグのメーカー問屋のほとんどが、東京では浅草橋から浅草を中心とした界隈に会社を構えているが、 新興のメーカーは、青山、渋谷といったアパレルファッション地区に会社を興した。そのことにより、 小さいながらも個性的な商品の提案がより新鮮に感じられる効果があった。
 そんな新興のメーカーの中で私が注目したデザイナーにMJ社のMS氏がいた。 MJ社は靴業界の新進キャラクターメーカーであったが、その中のメンズ部門のデザイナーがMS氏だった。 靴メーカーにもかかわらず、関連商品として製造されていた鞄が実に目新しくおしゃれでカッコ良かったのだ。 バッグのデザインから素材、金具、パーツにいたるまで従来の鞄とは一味も二味も違っていた。 丸井のメンズ館の靴売場で初めてその商品を見たときこれは凄いと閃くものを感じ、どこのメーカーが作っているのだろうと、探しに探して見つけたのがMJ社でありMS氏であった。
 MJ社のメンズ部門も青山にあったが、さっそく出かけて行き取引開始をお願いした。しかし、鞄は関連商品ということで小ロットでしか生産されておらず、受注発注体制(イタリアとは違い本数のみ)のため、本格的に展開を始めるには次のシーズンまで待たなければならなかった。
 MS氏のデザインする鞄の特徴のひとつに、錠前ほか金具のパーツを既存の物に頼らず、自分自身で考えたものを金具屋にオーダーして使用するということがあった。今ではそれも当たり前になっているが、昔は金具屋が持っている型の中から選んでそのまま使用するのが普通だったので実に画期的なことだった。 
 さらに、素材(皮革ほか裏生地等)の選択にもこだわりがあり、目新しい素材やちょっと贅沢な良質なものを使用していた。また、デザインも凝りに凝った物も多く鞄職人泣かせと言われるほどであった。
 必然的に小売価格帯も決して安くないものが多かったが、渋谷にあるS百貨店のSS社の店(池袋本店で成功したため渋谷にも出店していた)を中心に、まさにファッション好きなお客様に指示され売上も好調だった。ある時、有名デザイナーのY・カンサイ氏も非常に気に入って買っていかれたりもした(Y・カンサイ氏のライセンス鞄もその隣りに並んでいたのだが)。
 既存の鞄メーカーの人たちもMS氏のモノづくりに注目し、それらを研究しては様々なノウハウを模倣していった。 その結果もあってか、鞄業界全体のモノづくりとファッシヨン性レベルが向上していった。そんな先駆者の一人が彼だった。
 現在もMS氏はフリーランサーとして独立し、多方面で活躍している。私もSS社のオリジナル商品を開発するに当たって、彼には度々アドバイスを受けてお世話になった。
 鞄の物作りは結構大変な仕事である。バッグのデザイン画が描けるだけでは通用しない。その鞄イメージを実際に鞄を作る鞄職人に伝えるにはかなりの努力が必要である。今までになかった新製品だと至難の業とも言える(サンプルさえあれば、たちまち同じ物を作る技術はあるのだが)。デザインに描かけても構造上つくることが不可能な型もある。ちょっと凝ったデザインになると面道ぐさがって断られることもある。鞄業界のデザイナーとはデザインセンス以上に鞄職人に心を伝えるセンス(情熱)をも要求される。デザイナーと鞄職人の心がひとつになって初めて新製品や良質の商品が生まれる。実際にはデザイナーと鞄職人との間にはメーカーの生産担当者が介在しており直接デザイナーと鞄職人が関わることが少ないので、そこにもひとつの壁がある。
 一人前のバッグデザイナーになるには、地道に下積み経験を経て成長してきた人が多い。この業界ではバッグデザイナーになるための基本的な道というものが確立されていたため、各自が努力してノウハウを身に付けなければならない。一通りのことをマスターし能力を発揮し始めるには、少なくとも10年ぐらいは掛かるのではないかと思える。
 また、アパレル業界のようにデザイナーの名前が先行して売れることは少ない。業界内であれば、MS氏はじめYカバン社で80年代にキャラクター性の強いカジュアルラインをつくり出したAY氏(現在はHV社に移籍)、TR社の新OO主義を企画したTO氏、小売店の販売員からメーカーに転じ最近独立したアバンギャルド(最近はこんな表現はあまり使われないが)性の強い個性的なバッグをつくるIK氏等々が有名になってきたが、業界外で通用するデザイナーは日本ではまだ出ていない(海外においてもバッグデザイナーで有名な人はイタリアのピエロ・グィデイ氏ぐらいで非常に少ない。いつの日かバッグデザイナーとして有名な人が登場することを期待するのは私だけかもしれないが、是非あってほしいものである。日本バッグ協会はバッグデザイナーの育成システムを作り、人材の育成を行なってもらいたいなどと考えてしまう。

大手メーカー・老舗メーカーのファッション化対応

 大手メーカーには大手なりのパワーと安定性があるが中小メーカーにも個性と機動力があり、両社がそれぞれに棲み分けしながら存在しているのもバッグ業界の特徴である。 何でも揃っている大手よりも小さなメーカーの方が当然キャラクター性を明確に打ち出しやすい。 80年代はキャラクターメーカーの台頭期で、多くの新規メーカーが誕生し百花繚乱に賑やかさがあった。
 そのような中で大手メーカーや古いイメージが定着している老舗メーカーもこれらに対抗して、青山・渋谷等のファッション地区に別会社や事業部を設立して独自のキャラクター性を打ち出し、従来のイメージから脱皮しようという動きがあった。 また、レディースメーカーがメンズバッグ事業部を設立したり、逆に鞄メーカーがレディースの事業部を設立したりといった交差的に新規参入する動きもあった。
 大抵はバッグデザイナーがヘッドになり、おしゃれなブランド名を付け、小さいながらもセンスの良いショールームを構えてスタートして行った。 その事業部が成功して社名をその事業部名に変更したメーカーもあった。上手く行かず撤退して行ったところもあったが、 そのプロセスを生かして本社に戻り活躍しているところもあった。勿論、何時の間にか消えて行ったところも多い。

 その頃創業100年を超える中堅鞄メーカー問屋のTR社も、古い体質からの脱皮を図り次世代への布石を目指してLA事業部を渋谷に設立した。 スッタフは外部から募集し、デザイナーとして前記(バッグデザイナーの章)のMS氏を起用した。展示会も渋谷や青山で開催し次々と新製品を発表して行った。 最初はなかなか軌道に乗らず紆余曲折していたようだが10数年経った現在ではTR社の看板的な存在になっている。 デザイナーもTO氏が引き継ぎ“新○○主義”と言うコンセプトのビジネスバッグシリーズは鞄業界のビジネスカジュアル分野に新旋風を巻き起こした。
 このLA事業部を設立したTR社のYS氏(当時専務)は数年前に交通事故で突然亡くなってしまったが、あの世からLA事業部を応援しその発展を喜んでいる気がしてならない。もし彼が今も生きていたら、21世紀のこの低迷の時代にどのような戦略を企てるか知りたい気がする。本当に残念である。そのYS氏とは趣味も考え方も私と共通点があり良い友人であった。一緒にイタリアへ行ったことや、彼の結婚式の仲人が遠藤周作夫妻で披露宴の場で学生時代に愛読した本にサインをいただくことが出来たのも非常に懐かしい思い出である。

80年代後半からバブル期のバッグ業界

 80年代後半から90年代初頭のバブル期までバッグ業界もさらに発展を続けていった。 アルマーニ、ベルサーチ、といったイタリアンファッションが注目されるようになり、実に華やかさが増し一層の高級化が進んだ。 日本人観光客が本場のヘルメス、シャネルといった一流ブランドショップに大挙して訪れる光景にもどんどん拍車がかかっていった。 バッグブランドではグッチが復活し、プラダ、エトロ、ポリーニといったイタリアンインポートものが日本に紹介され人気を高めていった。
 国内でもイタリアブランドのライセンスビジネスが幅をきかせ、イタリアンテイストのバッグが良く売れるようになっていった。 鞄の売上平均単価も急に上がりだし5万円から10万円クラスの高級品も、飛ぶようにとは言わないが良く売れるようになっていった。 イタリアものではないが、これまた他業界から参入してきたOK社(現在は倒産してなくなった)が アメリカから輸入したシュレジンジャーというブランド鞄が、 タイミング良くその時期にヒットした映画の中で女性主人公が使用していたことが話題になり(意図的ではあったがファッション雑誌にも度々紹介された) 爆発的な売上を記録した。7万円から10万円もするにもかかわらず、その鞄はたちまち売り切れとなり次回の輸入分まで予約で一杯という状況ガ続いた。 それはまさにバブルの絶頂期を象徴していたようだった。

 私が勤めていたSS社もファッション対応を追及して新しいタイプのバッグショップの展開を始めた。 高感度商品・高感度提案をテーマに贅沢な店づくりの新業態コンセプトショップを開発し出店を続けていった。 そして、店舗数も80店を超え、年商も100億円に達しようとしていた。
 好景気の中で社員の慰安旅行も温泉バス旅行をやめ、ホンコン、タイペイ、グァムと海外に出かけるようにもなった(この3回だけであったが)。 これも楽しかった思い出のひとつであった。SS社の発展はさらに続いてゆくが、やがて大きな過渡期を迎えることになる。
 一方、同業のバッグチェーン店のDC社も急激な多店舗展開を図り、 バッグ業界の専門店としてはトップの売上規模を不動のものとし(外資系のブランドショップは除く)ついに株式の上場を果たした。 バッグ業界の中にあっては画期的な出来事であった。
 この時期は全国各地に様々なショッピングセンターが誕生し、これらに便乗することによりバッグのチェーン店各社もこぞって拡大路線を突っ走った形となった。 バブル以後も慣性の法則が働いているがごとく出店拡大路線は止まることがなかった。(手記「鞄屋」その3へ続く)

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