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鞄屋

手記「鞄屋」
20世紀後半:日本のバッグ・鞄業界
by
HONDA-BAGS PROJECT :本田洋一

手記「鞄屋」その1

プロローグ


 2000年4月、24年間勤めていた鞄屋を辞めた。これを機会に手記でも書いてみようと思った。ただ何となくそう思った。それがケジメかも知れないと思った。自分自身のこと、バッグ業界のこと、出会った人たちのこと、思いつくままに書いてみたいと思う。
 本当は「鞄屋」ではなく「バッグ屋」と言わなくてはならないかも知れないが、そのバッグ屋の中のメンズバッグ(鞄)部門でずっと仕事をしていたので、あえて「鞄屋」と言っておきたい。
 日本では婦人物のバッグ業界全体のことを袋物業界とも呼んでいる。そして、紳士物、学生物、トラベル物等のことを鞄業界と呼んでいる。業界の団体組織も「日本ハンドバッグ協会」と「日本鞄協会」といった具合に分かれている。そろそろ統合して「日本バッグ協会」になっても良いと思うのだが、製造メーカー団体、卸問屋団体あるいは地域ごとの団体組織等々複雑な分類になっている。そのような中で特に紳士物鞄を中心に扱っている店のことを「鞄屋」と呼んでみたい(はっきり言って、日本には私が定義する「鞄屋」はほんの一握りしか存在していないのだが・・・)。

 鞄という言葉に私は非常に愛着を感じている。そして、一般に「ビジネスバッグ」と呼ばれる「男の鞄」が大好きである。ただし、これから書くことは鞄を中心にしたバッグ全体の話になると思う。

鞄屋という仕事との出会い

 1975年の第1次石油ショックの翌年、大学は卒業したものの就職はせず東京に出てきた。生まれ故郷は九州の別府で、大学時代の4年間は福岡で過ごした。そして、広告関係の仕事がしたくて(できるならコピーライターになりたかったが)、当時開校したばかりのTBS東放学園に席をおき、放送関係の勉強をしながらそのチャンスを探していた。だが、なかなか見つからなかった。
 その間色々なアルバイトをしたが、原宿のアパレルメーカーでセールスアシスタントをしたことが切っ掛けで、ファッション関係の仕事も面白そうだと思いはじめた。当時、アパレル業界は青山や原宿にマンションメーカーと呼ばれる新しいメーカーが続々と誕生し、後の「DCブランド(デザイナー&キャラクター)」の基盤が出来つつあった。
 学生時代はファッションとは無縁の生活で、いつも着古したGパンとTシャツで過ごしていた。その当時はフォークソングの全盛期で、好きだった吉田拓郎も井上陽水も「かぐや姫」の伊勢正三もそのような服装だったし、まわりの友達もみんなそうだったから、ファションに関して全然気にもしていなかった。あえて言えば、ジーンズが当時の流行スタイルでありごく自然に取り入れたため、ファッションしているということにさえ気づかなかったのである。
 一度だけ「VAN」ショップで白いコットンパンツ、黄色のギンガムチェックのボタンダウンシャツを買いアイビールックにチャレンジしてみたこともあったが、自分には似合いそうもないと諦めた。
 ただ、大学4年の春夏にかけて半年ほど、フランスを中心にヨーロッパを放浪した時、パリの街角で見かけた一流ブランドショップのウインドウを目の前にして(Gパン姿ではとても店内にははいれなかったが)、本場のエレガンスファッションの洗練されたスタイルとその高級感に圧倒され、それなりにファッションの世界に興味を持ったことがあった。
 
 そんなこともあってか広告関係の仕事はキッパリあきらめ、ファッション関係の仕事を目指してリクルートを開始した。大手のアパレルメーカーから無名のマンションメーカー、さらにアパレル専門店等をあたった。しかし、就職難の中、何枚も履歴書を無駄にした。そんなある日、新聞広告で「ファッションビジネス○○○○」という専門店の求人が目に入った。初任給もまずまずで、新店オープンにつき社員募集ということだったので、面接を受けてみることにした。ところが、てっきりアパレル専門店だと思って出かけて行ったところ、何とそれがバッグ専門店だったのだ。その瞬間まで、この世の中に「バッグ屋」という仕事があることを意識したことがなかったので一瞬、脳の回路がぶち切れるぐらい戸惑ってしまった。
 「何がファッションビジネスだ」と思いきや、その店に並んでいる様々なバッグの中に、ちょっと目を引くひとつのボストンバッグがあった。LとVのプリントマークがついた現在ではお馴染みのブランドバッグだが、当時は日本に入ってきたばかりで、知る人ぞ知るバッグであった。私も知るよしもなかったが、何故か不思議と魅せられるものを感じてしまった。そして、販売スタッフの方の説明を聞いてフランスの一流人気商品であることを知った。
 確かにバッグというアイテムもファッションの一部であり、主に皮革という素材を使用した立体的なデザインは、アパレルとはまた違った面でおもしろそうな仕事だと感じた。
そんなわけで、そのSS社に入社することにした。後で分かったことだが、そこで見たLとVのバッグは本物ではなく、IT社という日本のメーカー問屋がつくったコピー商品だったのだ。そのIT社には、その後、様々なかたちでお世話になることになる。

 こうして私のバッグ業界での第一歩が始まった。ルイ・ヴィトン、グッチ、セリーヌ、クリスチャン・ディオール、カルチェ、フェンディといったブランドがバッグというアイテムでも人気が出始めた“第一次海外ブランドブーム”と呼ばれたそんな時代の頃だった。

 SS社に入って最初は見習いで、大井町のH百貨店(今はもうなくなったが)の中にテナントショップとしてあったレディースバッグの店に配属された。その時、最初の上司だったM氏には大変お世話になった。バッグの商品知識、接客技術、商品のディスプレー、商品の包装、帳簿の管理等々販売業務の基本をキッチリ教えていただいた。また、社会人としての基本(お酒の飲み方、マージャン等)もしっかり教えていただいた。M氏は現在、故郷で実家のバッグ屋を継いでいる。たまに業界の展示会で顔を合わせることもあるが、あれから四半世紀もたってしまった今、あらためて感謝している。
 入社して3ケ月間、がむしゃらに仕事を覚えた。最初の年末商戦の12月は非常に忙しく、一日も休むことなく働いた。そして、販売という仕事の楽しさと、大変さがやっと分かりかけてきた。

 翌年、新年早々。いきなり転勤を命じられ、池袋のS百貨店の中にあるオープンして間もない店に配属させられた。その店は紳士物の鞄だけを扱う、いわゆる鞄屋(正確には鞄売り場)だった。その日から、本格的に鞄とのつきあいが始まり、以後ずっとバッグ業界の中の“鞄部門”で仕事をするようになる。その時から、私は“鞄屋”になった。


駆け出し時代

 鞄のカの字も分からず、先輩もなく(私とアルバイトの女性と二人だけの店だった)入社4ケ月目で、いきなり店の運営を任された(仕入れ以外)のには、さすがに困惑してしまったが、今考えると自分が成長するためには非常にラッキーな経験だった。
 仕入れ担当の上司が週に何回か顔を出して多少のアドバイスはしてくれたが、仕事のほとんどは独学に近いかたちで覚えなければならなった。取引先の営業担当者の人たちからの情報を頼りに、鞄の商品知識、皮革の種類や手入れの方法から販売のテクニックまで自分でノートをつくり勉強した。そして、鞄のプロフェショナル販売員を目指しながら、いつの日か仕入れも任せられる正店長になりたいと頑張った。

 百貨店の中の店ということもあり、百貨店式の接客マナーや接客用語を身につけるのも一苦労だったが、これも接客販売の基本を学ぶには非常に良い経験だった。また、休息時間を利用して色々な売り場を見て回るのも楽しみだった。パリの街角で見かけた有名ブランドショップもあった。最新のデザインの洋服も見られたし、家具・インテリア・家庭用品・時計・宝飾・家電・レコード(CDはまだ出ていない時代)・レジャースポーツ売場、そして、食品売場等々を見て回る度に新しいモノと事を発見した。その頃の百貨店には常に“モノの情報発信基地”としてのおもしろさが沢山あった。
 当時、その百貨店の12階には書籍売り場もあり、週に何回かは本を購入しては、同じフロアーにあった“シェ・フィガロ”というフランス風の喫茶店でエクスプレッソコーヒーを飲みながら本を読むのも楽しみのひとつだった。本を読む習慣もその頃から身についたようだ。
 学生時代はフランス文学や哲学を勉強していたこともあったが、原書で読めたのは「星の王子様」ぐらいで、もっぱら日本語で訳されたフランス文学や哲学書を読むことが専門だった。また、永井荷風の「フランス物語」や遠藤周作のフランス留学体験(戦後、初の仏留学生であった)をもとに書かれた一連の作品が愛読書だった。遠藤周作に関しては、キリスト教的文学から狸里庵のぐうたらシリーズまでほとんど読みあさった。社会に出てからは、マーフィーやナポレオン・ヒルといったアメリカ・ニュー・ソート系(今では古典的だが)の成功哲学ものや、松下幸之助、竹村健一、船井幸雄といった経営に関するものにだんだん興味が移っていったが、気分転換をはかりたい時は、筒井康隆、星新一、平井和正といったSF的なものや、外国人から見た日本文化論(例えばフランス人のポール・ブネ氏の「不思議の国ニッポン」シリーズ等)ものを好んでよく読んだ。その後、年間100冊はコンスタントに本を読めるようになった。今でも読書が一番の趣味である。
  
S百貨店とSS社

 百貨店業界の中で、紳士フロアーに“紳士物だけの鞄売場”をつくったのはS百貨店が一番最初であった。それ以前の百貨店の鞄売場は婦人物のハンドバッグ売場(ハンドバッグとは手提げバッグのことなので、婦人バッグ売場あるいはレディースバッグ売場が正しい表現だが、慣習的にハンドバッグ売場と呼ぶところが多い)と併設されているのが常識だった。
 1975年、S百貨店が増築大改装をおこなった際、ライフスタイル別のMD(商品)構築を実施するにあたり、鞄の中の紳士物(ビジネスバッグ中心)だけをピックアップして紳士雑貨売場に展開することになった。当時、S百貨店の常務だったW氏(後に社長、会長。現在は百貨店の大型倒産で有名になったSG百貨店の再建に取り組んでおられる)と私の入社したSS社の専務だったY氏(後に社長)が学生時代の同期だった縁もあり、その紳士雑貨売場内の鞄売場をSS社が請け負うことになった。
 この展開が百貨店の鞄売場にとって、また鞄業界にとっても大きな変化の前兆になったと私は思っている。鞄というアイテムが実用品としての売られ方から、ファッション他様々な付加価値を加えた売られ方へ変っていったと言える。それらのことは後で書いてゆくが、現在では、ほとんどの.百貨店の鞄売場がこのようなスタイルで、紳士鞄(一部旅行バッグ含む)は紳士服フロアーに、トラベルバッグはレジャー・スポーツ売場に、カジュアルバッグは紳士物フロアの中でもカジュアル売場にといった具合に、ライフスタイル別に分散化されている。文具売場の中にもランドセル、学生物バッグだけでなくビジネスバッグコーナーが生まれたりといったように、どんどん細分化、専門化が始まっていった。
 S百貨店のこの試みは実に革新的だったと言えると思う。私もそのような波の中にあって色々と大変なこともあったが、人生の貴重な体験をさせてもらった。

SS社で一番小さな店

 私が入社した当時(1975年)、SS社は全国に約30店舗を持ち、約30億円の年商であった。バッグ業界のチェーン専門店としては2番目の売上規模であった。一番は銀座に本店があったCT社(すでに倒産。その流れをくむOB社は健在)。その他の有力なバッグチェーン専門店としては、池袋に本店でハイレベルな品揃えで定評があるIU社、千葉が本店で地元では一番店の基盤を持つKG社、東北地方で圧倒的に強いMT社グループ等があったが、現在、業界トップで上場企業のDC社、吉祥寺が本店で時流対応が持ち味のEL社、鞄メーカーから小売業に進出してきたMS社、横浜元町発のSPA型のKM社等は、まだそれほど目立った存在ではなかった。

 私が配属されたその店は、SS社にとって初めてのS百貨店への出店であり、しかも初めての紳士鞄だけにしぼり込んだ売場づくりということもあり、当初はどのように品揃えを図り、売上を伸ばしてゆくか全くの試行錯誤であった。そして、売上規模もSS社全店の中で一番小さな店だった。
 S百貨店に隣接して“PC”という日本で最初にファッションをテーマに登場して話題になったショッピングビルがあり、その中にもSS社の店があった。その店は東京地区では有数の売上を誇る規模で、その頃が全盛期と言っても良いぐらいだった。しかし、10数年後には、この2店の売上規模は逆転することになる。社内でも誰一人そのようになるとは予想していなかったと思う。

 さて、その小さな店は紳士服フロアーの片隅にあり、わずか5坪程の売場面積だった。店づくりだけはワインレッド色のウッドを基調とした英国トラッドショップ風で、鞄屋としては格調高くとてもおしゃれだった。しかし、来店されるお客様のほとんどが、従来の鞄売場とはイメージが違うため戸惑っていた。百貨店にある鞄売場とはもっと広く、旅行用のスーツケース等がずらりと並んでいるような売場であると思っているのだ。そして、「他に鞄売場はありますか?」とか「本当の鞄売場はどこですか?」とか毎日のように聞かれたものだった。
 品揃えに関しては、ビジネスエリートと呼ばれた高所得者のビジネスマンをメイン顧客として想定していたので、当時としては、かなり高級な皮革ビジネスバッグを中心に揃えていた。ただし、ライセンスブランドがついた鞄が一般に市場に出てくるのは、まだ数年先のことである。また、他店との差別化戦略商品として、イタリア、ドイツ、フランスからSS社が独自で直輸入した希少性のある鞄があった。これらの直輸入品は商社や代理店を一切通さず、直接現地に行って仕入れてきたものであった。そのため価格帯も国産の高級品と同等であり、何と言っても皮革製品の本場の味がある国産品にはないデザインのものが色々揃っていた。
 しかし、一般のお客様の求める鞄とはかなりのギャップがあり、オープン1年目は売上が伸びず非常に苦戦した。それでも、池袋という集客力のある立地にも恵まれていたので、徐々に店の個性が認知され、少しずつ売上も伸びていった。

70年代後半、メンズショルダーバッグ登場

 そのような状況の中で、もっと店の個性を打ち出していきたいと考えた。そこで閃いたのが、その当時ヨーロッパで流行っているという“メンズショルダーバッグ(縦型のシティーカジュアルタイプ)”を大々的に提案してみようということだった。
 イタリア、ドイツ製の直輸入品を中心に、その頃やっと生産され始めたばかりの国産品を集められるだけ集めてみた。前期のIT社が“メンズショルダーバッグ”に関しては積極的に商品開発をおこなっていたので、それらも含め、売場の前面に100本近く。展示してみた。
 当初のお客様の反応は「これ本当に男物ですか?」というのがほとんどで、かなり不審がられたものだが、やがて少しずつ売れるようになっていった。芸能人の方や横文字職業(サラリーマン以外)のお客様から「こんなバッグを探していた」とか「こんな鞄がこれほど沢山揃っている店は他にないよ」とお褒めの声をかけられるようにもなっていった。
 この当時の男物のショルダーバッグといえば、旅行用タイプがほとんどで、実用本位のものばかりで(舟型タイプが多かった)おしゃれで持つというにはほど遠いものだった。しかし、ヨーロッパタイプのメンズ用ショルダーバッグは、満員電車に乗っても嵩張らず両手が空いて楽であるという実用的な面もあるが、それよりも“男がおしゃれのために持つ鞄”として人気が出てきた。新聞や雑誌にも新製品として取上げられたりもしながら、東京を中心とした都会だけだったかも知れないが、急激に売れてゆくようになった。
 それを契機として、店の売上も大幅に伸びるようになってきた。そのメンズショルダーバッグのヒットはしばらくの間続いたが、やがて一般サラリーマンや年配のおじさんまでが持つようになり、今ではおしゃれで持つという姿ではなくなったが、根強い定番商品として残っている。
 このメンズショルダーバッグ提案は私の初めての成功体験となった。(手記「鞄屋」その2へ続く)


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